R メモ read.table のエラー

エクセルシート状の表データを選択し、R で read.table を実行するとエラーがあった

今後同じことが起きた時、および同じように困っている方のためのメモ

 

#エラーが生じたコード

read.table(“clipboard”, header = T)

>scan(file = file, what = what, sep =sep, quote = quote, dec = dec, でエラー:

   3348行目は4個の要素がありません

 

 

検索すると Hoge blog さんの記事にも類似の事例があったので、記事の通りオプション設定をして試してみるが、読み込まれない

http://izumoto.hatenablog.com/entry/2016/02/04/053543

 

試行錯誤の末、エクセルの表設定を解除し通常範囲にしてコピーし、sepの設定だけすると読み込まれた

 

#成功したコード

read.table(“clipboard”, header = T, sep=“/t”)

 

 

以前も同じことがあったが、文字データが含まれるからこうなるのだろうか?

わからないけどとりあえず動いたのでよし

 

 

 

じゃあどんな愛国ソングならいいのか

RadwimpsHINOMARUという曲が炎上した

確かに歌詞を見ると、「日本人」であるという血統を誇るような表現、先の大戦についてあまりにも無神経なフレーズ、「国の為に」命を賭けることを煽っているようにもとれる、軍歌的な部分がある

 

RADWIMPS新曲に見る「無邪気な愛国ファンタジー」の果てにあるもの | ハーバービジネスオンライン

https://hbol.jp/167868

 

作詞者本人はツイッターで一応の謝罪 (不快に思ったならすんませんって、とりあえず頭下げとけという態度が透けて効果的でない謝り方だよ……) してみたり、一方でライブで「自分の生まれた国を好きで何が悪い」と叫んだりしており、あまり批判を深く理解していないようである

昔すごく好きなバンドだったのに残念だ (人生で初めて自分用に買ったCDは、「無人島に持って行き忘れた一枚」だったり)

好きなだけなら問題にはならない、その表現の方法が悪かったのだ

 

では、本当に右翼でも左翼でもない人 が、どうしても日本を誇りたいとき、どういう歌を作ればほとんどの人を傷つけることがないか、ここでは考えてみたい 

 

 

 

  • 漠然と歴史を誇るのをやめる

日本に限らずどの国にも、胸を張ることのできない歴史がある

特に日本は国として、第二次世界大戦において自国民にも他国民にも甚大な被害を与えたし、それによって人生を振り回された人間だってまだ生きている (他の国だって戦争で人を傷つけているが、それはまた別の話)

それにもかかわらず「受け継がれし歴史を手に」なんて言えば、戦争やその他国の失策(公害とか)によって人生を損なわれた人や、それを身近に見てきた人は、歴史の負の部分を理解していないかのような姿勢に反感を抱くだろう

 

国の歴史全てを恥ずべきではないが、同時にすべてを誇る必要もない

また部分的に誇らないからといって、それは反日ではないし、むしろ盲目的に国家を肯定するより、真に日本のことを考え、愛していると言っても良いくらいだ

 

→ではどうするか

歴史について言及しない、もしくは具体的に胸を張れる歴史について歌えばよい

震災からの復興とか、火縄銃量産に成功したこととか、茶の湯の成立とか、WBCで優勝したとか、関ヶ原の戦いとか、マグロの養殖成功だとかを歌えば、ほとんどの人が傷つくことはないだろう

レキシの曲、日本の歴史を歌っても炎上することないじゃない

 

あるいは、歌として説教臭くなる危険性はあるが 、平和を望んでいること、争いを忌避することを明言しておいてもよい

曖昧さを残したことによって想像力が掻き立てられるのは創作物の良いところだが、問題になりそうな部分は解釈の幅を潰しておくのも力量の内ではないか

 

 

 

 

  • 漠然と血について言及しない

曲名や文脈から「高鳴る血潮」や「この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊」は「日本人」の血統を誇っているように読める

 

先祖から受け継がれた血統というものは実在するし、自らの先祖を誇りに思うのは結構だ

しかし、それに「日本」という国のラベルを与えるのは恣意的な操作である

この「日本」というラベルがあること、あるいはないことによって、苦しい思いをしてきた人々がいることにも思いを巡らせるべきだ

 

「日本人」ではないことを理由に虐められたり差別されたりした人、無理矢理「日本人」にされた人、過去に生まれる前に日本人というラベルを与えられ、それに誇りさえ持っていたのに日本の敗戦によっていきなり剥がされてしまった人、「日本人」だからといって戦争に駆り立てられた人……

事実として、日本から国籍を与えられた日本人は存在するし、それ自体は恥じることではない

しかし「日本人」であることを強調するのであれば、「日本人」であることを国家によって悪用されてきた歴史や、「日本人でないこと」を理由とした差別を知る人から、警戒心を抱かれるのは当然だ

 

→ではどうするか

これも言及しない、あるいは様々なルーツを認めた上で日本に縁のある人々のことを述べる (おじいさんのおじいさんは海を越え おばあさんのおばあさんは山を越え 僕らは今同じ国にいる 人はみなキセキと呼ぶ とか?rad風……)

歌詞には、国籍による疎外を思い起こさせない工夫が欲しかった

 

 

 

 

  • 自己犠牲について言及しない

「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」なんて、「日本」の誇りや旗のイメージを暗示したり明示したりした後に言われたら、特攻隊をはじめとする国家による自己犠牲の強制を思い出す人も多いだろう

繰り返しになるけど、それによって苦しんだ人、苦しんでいる人、それを見て来た人、日本にも海外にもまだたくさんいるんだからね?

 

→ではどうするか

「頑張ろう」という決意を表明したいのなら、その根拠を国家への誇りじゃなくて、自分の努力だとか、周囲にいる支えてくれる人、代表に選ばれただけの自分の実力に求めればよいし、その際別に身を滅ぼさなくてもよい

自己犠牲を強いる空気や圧力は良くないって日大アメフト問題で散々言ってたでしょ……

どうしても献身を語りたいなならせめて、「たとえこの身が散り滅ぶとて 我はいざ 咲き誇らん」など自分だけの問題とするべきで、「咲き誇れ」という他者への命令形にすべきではなかった

 

 

 

 

  • そもそも生まれた土地への愛を示すのに、国への愛の歌は必要なのか?

一説に囁かれれいるスポーツの応援を意図したものだったのであれば、本当にスポーツのことだけ歌えば良かった

このときに「日本ガンバレ」「日の丸ユニフォームガンバレ」と言ってもさほど問題にはならなかっただろう

 

それに生まれた土地への愛着を伝えるのに、国家への愛を歌わなくても良い

文化と国家、土地と国家、住民と国家は一対一の関係ではない

自分のアイデンティティを誇るのに、わざわざ間違うこともある国家と一体にならなくてもよい

 

打首獄門同好会の「日本の米は世界一」という歌は、ひたすらコメが旨いと騒いでいる歌だが、この歌に世界一というフレーズが出るからと言って日本国家からの弾圧の歴史を思い起こす人は少数だろう

しかしこの歌から日本を好きだと思う気持ちを汲み取る事はできる

 

また、日本古謡の「さくら」や、「朧月夜」「冬景色」といった唱歌も、ほとんど目の前の景色を述べているだけの歌詞であるが、日本語の美しさや風景の美、これらを読み解く日本文化の感性など、日本文化への愛を表している歌といって良い

さくら はともかく後者の唱歌たちは、そもそも日本を讃える気持ちを根付かせる意図で文部省が作ったものが現在まで残っているのだ

(ちなみに戦前、文部省はもっと国家や天皇を直接讃える歌も作ったが、ほとんどが忘れられてしまったらしい)

その意図が良いものかと言う問題はここでは置いておくとしても、押し付けがましくなく感じられることなく、人を傷つけることもなく、生まれた土地や文化への愛を表明することは可能だ

 

 

 

 

Radwimpsは元々「君を永遠に愛してる」とか直接的な言い方をしなくても好きの気持ちを表現できるバンドだったのだから (私はそこが好きだった)、冷静になれば日本に対しても物議を醸さず、純粋に良い曲として受け入れられるものを創り出せるだろう

一々うるさいことを外野が騒いでいると感じるファンも多いかもしれない

しかし、母国を好きだと言ってはダメだと言われているわけではないことを知ってほしいし、反発して閉じこもるのではなく、人々に悲しい思いや未来への余計な心配をさせることなく好きだと言う別の方法を考え、前に進んで行って欲しいと願う

「PTAグランパ」批判ー偉いオジサンがいないと女性集団は変われないのかー

「PTA グランパ!」とはNHKのドラマおよび同名の小説のことである。

 

  • PTAグランパ!とは

http://www.nhk.or.jp/pd/pta/

大手家電メーカーを定年退職した武曾勤65歳(松平健)。43年間、家庭を顧みないで働き続けた企業戦士。これからは家庭で悠々自適の隠居生活を送るつもりだった。・・・が、現実は甘くなかった・・・。妻の幸子(浅田美代子)は習い事や友人とのつきあいで、毎日忙しく充実した日々を過ごしている。勤は「ヒマなんだから何かすれば?」と幸子に上から目線で言われてしまう。離婚した娘の都(真飛聖)が小1になった孫娘・友理奈を連れて実家に戻ってきてからは、友理奈の面倒をみるのは勤の役目となった。大企業で激務の毎日を送る都は、小学校の初保護者会で、誰もが敬遠するPTA役員、しかも多忙極まる「副会長」のくじを引いてしまう・・・。

(ホームページにあるアオリ「元企業戦士vsママ軍団!」の一文だけでクラクラしてしまうが……上から目線てなに……)

 

 

最初に断っておくと、私はこの作品はほぼ見ていない。

テレビのチャンネルを変えている間に目に入って、その設定、描写に引っかかる部分(もちろん、悪い意味で)があった、というのが、見ていない理由であり、この批判記事を書く理由である。

 

端的に言うと、このドラマは、パターナリスティックで、あまりにも無神経である。

以下に、大きく分けて二つの理由をのべる。

 

 

 

 

1.元大企業のオジサンが主人公である

確かに、PTAは数々の問題を抱えた組織である、と巷では言われているし、実際そういう所も多いのだろう。

しかし、なぜそこに、大企業のオジサンを主人公に据えたドラマを作るのか?

 

このドラマには、大企業のオジサン自身の変革の物語であるという側面ももちろんあるだろうが、明らかにPTAの変革の物語を描くことを狙っている。

主人公のオジサンは、この変革に巻き込まれる側としてではなく、巻き起こす側として登場する。

なんやかんやで、初めから高い役職にいることも、変革者としてのお膳立てと見て構わないだろう。

この構図は、人種問題における、「白人の救世主」問題と似ている。(追記: 同一である、と書いていましたが、ちょっと違うと思い修正。フェミニズムの用語でもっと適切なものがあるかも)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/白人の救世主

すなわち、「有能で優れた白人が、未開で劣った存在である非白人を救ってあげる」という物語と同じように、「従来のオバサン主体のPTAはダメで、大企業での経験もある立派な男によってでないと、組織は良くならないだろう。」という女性への蔑みが、このドラマ潜んでいる。

当然、その蔑みは不当なものである。このような物語は、この蔑みを巧みに隠しつつ強化してしまうのでタチが悪い。

(あと、本題ではないが、なぜ主人公が「大企業」出身なのかも考えてみてほしい。なぜ、蕎麦屋とか、整備工とか、左官職人ではないのだろうか?)

 

 

「いや、今まで出会うことのなかった二つの文化が出会うドラマであって、むしろ従来の男女の規範を覆す為のドラマだから、むしろ歓迎すべきでしょ」とい反論もあるだろう。

なんなら製作者側もそういう気分でいるかもしれない。

しかし、そうではないだろう。その根拠を述べる。

 

上にあげた煽り文、元企業戦士と対立させられているのは、保護者軍団でも、PTA古参でもなく、「ママ軍団」である。

PTAって、少ないかもしれないけれど父親など男性保護者もいるでしょ?

PTAは、parent-teacher association、つまり保護者ー教師連合でしょ?教師は?

他にも対立しうる相手が、現実には存在するにもかかわらず、”vsママ軍団” と書いているのだ。

ここから、ドラマの主人公および視聴者の仮想敵は「PTAのうるさいオバハン」であることが読み取れる。

実際、私が見かけたドラマの場面は、カリカチュア的なPTAオバハンたちが、「うちの子に何かあったらどうするんザマス!?」(語尾は違ったかも)と騒いでいるのに、主人公らが辟易するといったものであった。

これは「愚かなオバサン」を「理性的な男性」と対比させる描写であり、従来の女性に対する偏見をより固定化させるものである。

 

 

PTAを舞台のドラマを作っても良い。元企業戦士のオジサンのドラマを作ってもよい。

しかし、その組み合わせが良くないのだ。

「正義のオジサン、無知なオバサンどもを蹴散らす」という古くて説教臭いドラマになりやすい。

組み合わせても、問題のない描き方ができる可能性はある。

が、「元企業戦士vsママ軍団!」なんて言っているようじゃ無理である。

 

 

 

2.痴漢冤罪問題をわざわざ取り上げている

どうもこのドラマでは、痴漢に間違われた教師をめぐる騒動が、重要なエピソードとして織り込まれているようだ。

確かに男性にとっては冤罪は恐ろしいことだろう。

現在は捜査方法も洗練されており、痴漢冤罪の可能性はより低くなっているが、こういった情報はなかなか広がらず、このようなドラマによって恐怖だけが積極的に煽られる。

(冤罪が心配な人、まずこういう記事とか読んでみてください https://togetter.com/li/1112213)

 

 

しかし、痴漢は、法律として犯罪になる、ということは知れ渡っているが、裁かれるべき深刻な犯罪であるという認知がまだ広く共有されていないという問題である。

「万引きくらいで騒ぐなんて」という人は滅多にいないが、「おしり触られたことくらい、大したことないのに騒ぐなんて」と言う人は未だに多い。

最近#metoo 運動によって広く知られるようになってきたが、実際に性被害を受けている女子生徒(および男子生徒)がたくさんいる中、真っ先に冤罪を疑うことは、被害者に声をあげにくくさせてしまい、性犯罪が蔓延るリスクを上げてしまう。

 

 

もちろん冤罪がゼロだとは言わないし、冤罪は当然避けるべきだ。

しかし、殺人や窃盗とは異なり、痴漢については、悪であるという社会的合意が得られていない。

痴漢に関しては、冤罪ばかりを強調できる段階に、社会が至っていないのだ。

このような状況においては、痴漢冤罪は語っても良いが、細心の注意を払う必要があるはずだ。

 

 

教師を信頼できるか、という問題を描きたいのであれば、痴漢冤罪以外にもネタあるだろう。

痴漢冤罪は、このような状況で、不用意にドラマで取り上げるべきでネタはない。

(こちらの記事も似た問題を取り扱っている。奇しくもまた、NHKの番組についてだ http://wezz-y.com/archives/53470)

 

 

 

もしかしたら、ちゃんと観れば上記は杞憂に過ぎないのかもしれない。もしそうなら教えていただきたい。

しかし、断片的な情報を見たところ、もっと批判すべき事が出てくるようにしか思えない。

それくらいならNetflix観るし……

 

 

NHK の文句ばかり言うブログになりかけているが……

私はNHKの全ての番組が嫌いな訳ではないし、面白いものもたくさんあると思う。

しかし前にも言ったけれど、公共放送名乗る以上、もう少し公共性を考えて番組を作って欲しいと強く願う。

発達障害は社会のシステムの変革だけで問題が小さくなると思うー当事者のグチー

私は不注意優勢型のADHDである。自分の症状についてざっくり説明すると、知能に問題はないが、どこか抜けている人である。子供の頃から集中力がないと何回も注意され、忘れ物が多い、物をすぐなくす、スポーツやゲームがなかなかうまくならない、などなどまあいろいろやらかした。でも、勉強はよくできたし、教室で走り回るみたいなわかりやすい多動はない。しかし、だらしのない人間であるとして、色々叱られたり、内申点下げられたりもした。

 


最近精神的に参ることがあって、精神科にかかったとき、ついでに気にかかってたADHD傾向について話すと、「抑鬱の根本的な原因となりうるので、まずADHDを治療しよう」ということになった。検査をし、診断が下り、ストラテラという薬が処方された。

で、このストラテラなんだが、自分にとっては副作用がキツく、かつ効いている実感がない。飲むと、吐き気がして、起き上がっているのがつらく、食欲も落ちる。曰く、この薬は効くようになるまで日にちがかかるとのことだったが、だいたい薬を毎日飲むなどといった習慣をつけるのが苦手な障害を治すために薬を飲み始めたのに、毎日薬を飲み続けないと毎日薬がのめるようにならないなんて()。

とにかく服薬はつらく、そのうちなんで私はこんな目に逢わなきゃいけないのかと、腹が立ってきた。だいたい、私はIQだけでいえば平均より上なんだぞ、例えばなんでもっと私よりも言語能力が低くても平気で生きている人間たちに、注意力が散漫であるだけで、だらしのないできないヤツ扱いをされなければならないのだ。

 


で、最近以下の記事を読んだ。

「なぜ日本は「発達障害大国」なのか 国別統計で常にトップレベルの理由」

産経ビズ リンク なぜ日本は「発達障害大国」なのか 国別統計で常にトップレベルの理由 (1/6ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)

 


要は、日本における「ちゃんとしている」のハードルが高すぎて、少し他人よりできないことがあると、大問題とされてしまい、例え軽度な発達障害であっても診断と治療の必要性が

生じてしまうということだ。これを読んでやはりか、と思った。

他の外国と比べてどうかは知らないが、現在の日本は、例えば私のようなうっかりした人間にはしんどい、でも本来ならもっと楽にできそうなシステムが多い。例えば、沢山の書類の中に、住所やら名前やら何度も何度も書いたり、履歴書を手書きで求められたり、郵送でないと受け付けられなかったり、ハンコが必要だったり……

そういうのはもっと、マイナンバー使うなりパソコンのポチポチですぐ済むようにするなり、電子署名や手書きサインokにすれば、不注意人間でも間違えたり忘れたりする可能性が低くなる。今のように、なんらかの承認が必要だと分かった時、ハンコがいるとか、保護者のサインだとか、保険証のコピーだとか、今すぐに用意できないものがあると、注意障害の人間はどこかで間違えたり忘れたりしてしまう。事務手続きなどが、数回ボタンを押すだけとかで済むようになれば、頼まれたらすぐにやってしまえるはずだ。

例え叱られなくたって、間違えたり忘れたりすれば、うっかり人間と言えども凹むし、その事が抑鬱の一因にもなりうる。こういったシステムの見直しをするだけでも、発達障害者だけでなく、定型発達者にとっても生きやすくなるだろう。


また、ミスを犯す確率の少ない人間を作ろうとして、短時間で大量の計算をこなさせたり、毎日忘れずにドリルの宿題をやらせてチェックするみたいな教育を行なったり、そうした人材を企業が求めるのも、弊害の方が多いように思う。

だいたい、ミスは誰だってしうるのだ。フェイルセーフ(wiki フェイルセーフ - Wikipedia) のように、ミスが起こっても大事にならないようなシステムづくりをする事がまずは大切だと思う。そうすれば、みんな多少のミスにもおおらかになれるはずだ。

それに、チェック要員の人数を増やす方が、ミスを防ぐには効率的だ。例えば95パーセントの確率でミスを犯さない人間一人がチェックするより、80パーセントの確率でミスを犯さない人間が二人でチェックをした方が、1パーセント、ミスの確率が減るのだ。雇用も増えるし。たぶん。

 

 

文章の練習がブログの主目的なくせにとっちらかってしまったが……

とにかく、まず、いつも締め切りとか破ってごめんなさい。でも、もっと生活のために必要なタスクが楽になれば、迷惑をかけることは減るだろうし、お互い楽になると思う。それだけでいくらかの「発達障害者」は、治療の必要がなくなるとも思う。国家医療費も減るよ。偉い人、申し込みだのなんだのシステムを作る人、よろしくお願いします。

「鬱の医療人類学」 北中淳子著【読書メモ】

日本において、「鬱」の病態およびその病因がどのように捉えられ、変遷して来たかが歴史的経緯および海外との対比を交えつつ紹介されていた。

 


特に病因について、個人の性質に帰着させるか、状況に帰着させるかによって、治療だけでなく、診断や患者の社会における立ち位置などにまで影響が及ぶというのは興味深い。

例えば、「真面目な人が働き過ぎることによって罹患する」という帰着のさせ方は、主婦らを鬱病治療から疎外してきたという。

また、過労によって鬱になるという考え方は、日本から海外に広がったものだそうだ。

 

 

 

ーーーここから脱線ーーー

過労死や痴漢、引きこもり等日本から社会問題の概念が海外に輸出されている事が日本人に知らさせる際、時として「だから日本は遅れている」という言説が伴われる。すなわち、「海外にない概念が言語化されているということは、この問題が一番深刻なのは日本である」というサピア-ウォーフ的なものだ。しかし、このような、日本に限らずある現象が文化特異的なものであるとする考え方は危険である。海外にもヒキコモリはいるし、ツナミも来るし、カロウシもチカンもある。そして、社会問題として認識され、対策がなされている場合もある。日本のみを特殊と捉えすぎると、これら海外から得られるはずの知見を、見えなくしてしまうだろう。「日本スゴイ」も「日本ヤバイ」も行き過ぎると、海外の事例を見えなくしてしまう。

ーーー脱線終わりーーー

 


病気、特に精神病の診断は、常に恣意的なものである。

だから強固な線引きを確立しようというのではなく、常に葛藤をしながら、本書のように見直しをし続けることが大事だと思う。

「世界ネコ歩き」批判

NHKでたまに流れている、世界の至る所で撮影されたネコのドキュメンタリー、「世界ネコ歩き」、わたしは見かけるたびに複雑な気持ちになる。

 

出てくるネコは大抵、野外で放し飼いされているネコ、またはノラ猫である。

ネコが野外でのびのびと過ごしている様は、確かに癒される。

 

しかし、ネコが野外にいることは、決して望ましいこととは言えない。

ネコにとっては、病気や飢えのリスクが高く、ネコ同士の争いは怪我やストレスの原因になり、都会であれば交通事故の危険性も加わる。たとえ飼い猫だったとしても、外で妊娠してきて、その子供が捨てられたり、殺されたりすることだってある。

人間も、人によっては糞害や鳴き声などで悩むかもしれない。

環境にも、ネコが悪影響を与えうると言われている。ネコは野生動物を狩って殺してしまう問題が繰り返し指摘されている。番組でも、ネコが鳥を狩ろうとしている場面が微笑ましい光景としてよく放送される。

 

このようにネコが野外にいることにはさまざまな問題がある。このため現在ネコは室内飼いが推奨され、野良猫に対してもその数を減らすべく不妊処置を施しつつ現在いるネコに関しては見守ろうという地域ネコ活動が広がっている。

 

このような状況があるのに、野外で過ごすネコたちの良い部分だけを切り取った番組を無邪気に放送し続けるのは問題ではないだろうか。実際に外にいるネコたちは可愛らしい猫だけでなく、たくさん目ヤニが出ていたり、毛並みが乱れていたり、怪我をしていることも多い。そういうネコたちを無かったことにして、「カワイイ」部分だけ切り取ってみせるのは、野外に出るネコの問題を覆い隠し、解決を遅らせ、画面の枠外に隠された不幸なネコを生み出し続けることにはならないだろうか。特に、公共放送を自認するNHKがこの番組を製作し続けているのは、問題であるとわたしは考える。

 

室内で安全に飼われているネコだって可愛い。家や店舗、逃走防止の対策がされている庭などで可愛がられるネコと、人間の関係を撮るだけでも、十分可愛いネコが映ったドラマになるはずである。あるいは、ノラ猫問題を深く理解しつつ、今いるネコたちの為に奔走する地域ネコ団体を取材するのも良いだろう。

一方、野生でたくましく生きる動物が観たいのなら、キツネでもライオンでも撮ればよいのだ。

とにかく今のままの番組の作り方は、見直すべきではないだろうか。ネコのことを可愛いと思うなら、なおさらである。

 

 

ちなみに、疲れているときネコ歩き風に「あらあら、電車に乗り遅れっちゃったみたい」「たくさん働いて疲れちゃったんだね、おやすみ」みたいなナレーションが入るのを想像すると、頑張れる気がするのでオススメ