「鬱の医療人類学」 北中淳子著【読書メモ】

日本において、「鬱」の病態およびその病因がどのように捉えられ、変遷して来たかが歴史的経緯および海外との対比を交えつつ紹介されていた。

 


特に病因について、個人の性質に帰着させるか、状況に帰着させるかによって、治療だけでなく、診断や患者の社会における立ち位置などにまで影響が及ぶというのは興味深い。

例えば、「真面目な人が働き過ぎることによって罹患する」という帰着のさせ方は、主婦らを鬱病治療から疎外してきたという。

また、過労によって鬱になるという考え方は、日本から海外に広がったものだそうだ。

 

 

 

ーーーここから脱線ーーー

過労死や痴漢、引きこもり等日本から社会問題の概念が海外に輸出されている事が日本人に知らさせる際、時として「だから日本は遅れている」という言説が伴われる。すなわち、「海外にない概念が言語化されているということは、この問題が一番深刻なのは日本である」というサピア-ウォーフ的なものだ。しかし、このような、日本に限らずある現象が文化特異的なものであるとする考え方は危険である。海外にもヒキコモリはいるし、ツナミも来るし、カロウシもチカンもある。そして、社会問題として認識され、対策がなされている場合もある。日本のみを特殊と捉えすぎると、これら海外から得られるはずの知見を、見えなくしてしまうだろう。「日本スゴイ」も「日本ヤバイ」も行き過ぎると、海外の事例を見えなくしてしまう。

ーーー脱線終わりーーー

 


病気、特に精神病の診断は、常に恣意的なものである。

だから強固な線引きを確立しようというのではなく、常に葛藤をしながら、本書のように見直しをし続けることが大事だと思う。